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ただ抜け道はあり、狩猟神の諏訪社では、鹿食免という御札をもてば、シカを食べても良い、とされています。
また江戸の町でも、薬喰いと称して、肉食も認められていました。 もちろん肉の禁忌は建前ではあるのですが、やはり国家や社会の理念として重視されると、表向きには強い力として作用します。
その呪縛を解いたのは、明治維新の文明開化で、それが最高潮に達した明治四(一八七一)年三月、天皇は肉食再開宣言を行いました。 明治天皇は、和食が好きで洋食を好まなかったといわれますが、西欧列強との交流を行うためには、肉を用いた洋食を避けることができなかったのです。

こうして表向きにも、肉食が許容されると、民衆も進んで肉を食べ始めます。 仮名や魯文の戯作『安愚楽鍋』で、”牛鍋食わぬは開化ぬ奴”と肉食に拍車をかけていますが、強固に肉食は”機れ”と信じていた人々もいました。
天皇の肉食再開宣言直後には、御岳の行者たちが、これに反対して皇居へ侵入し、天皇に肉食禁止の継続を直訴しようとする事件が起きています。 彼らのうちに死者が出ます。
魯文「安愚楽鍋」の挿絵が、共犯者の取調では、告口装束を着ていれば、警官隊のピストルの玉にあたるはずがない、などと証言しています。 いずれにしても、このような経緯をたどって、肉食が再開されましたが、やはり長い歴史のなかで身に染みこんだ噌好は、簡単には改まりませんでした。
栄養学的に摂取タンパク質比率で、畜産物が水産物を上回ったのは昭和五○(一九七五)年ですし、消費量で魚と肉が逆転するのは、意外に遅く実に昭和六三(一九八八)年のことなのです。 食生活のベースをなす日常の調理も、明らかに料理という文化の一つですが、やはり儀式のほかハレや楽しみの時に供される料理には、その英知と技術とが集約されており、料理文化の最も重要な要素がふくまれていると考えられます。
また時代によって、そのスタイルは異なりますが、これを料理様式と呼びたいと思います。 古代国家の料理古代国家においては、宮内省に大膳職と内膳司とが置かれていました。
大膳職は朝廷全体の儀式料理に関係し、内膳司は天皇の食事を司るのが役目で、奉膳・典膳などの職位がありました。

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